左京区の社寺・史跡等                                                              Home Page

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  下鴨神社 (賀茂御祖神社)  世界遺産登録     地図      
祭神は賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)とその娘の玉依媛命(たまよりひめのみこと)/賀茂建角身命は、天照大神の命で高千穂の峰に降臨して八咫烏に化身して神武天皇の東征を助けたと云われる/また賀茂建角身命は葛城山から山代の岡田賀茂神社に至り、さらに後に山代の鴨川を遡って高野側との合流点に鎮まった。これが現在の賀茂社の起源とされる/賀茂建角身命の娘の玉依媛命は鴨川を流れ来た朱塗りの矢で身ごもり別雷神(上賀茂神社の祭神)を生んだとされる/それゆえに玉依媛命は上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母親であり、また賀茂建角身命はその祖父であることから、当社は賀茂御祖神社と呼ばれる/このため当社は神代の頃から歴史を持ち賀茂氏の氏神でもあるが、古来朝廷の崇敬が篤い/西暦544年欽明天皇の時行われた除災賀茂祭りが葵祭の起源と言われる/平安遷都に当たっては桓武天皇の行幸があり勅命により王城鎮護の社とされて以来一層の崇敬を集めた/西暦810年嵯峨天皇の御代のとき境内に齋院が置かれ、皇女が出仕して賀茂社に奉仕した/その後この制度は400年続いたが応仁の乱で廃絶され、江戸時代に復活、その後何度か断絶したが昭和28年に現在の葵祭の斎王代制度として復活した/摂社:  河合神社、出雲於神社、言社(ことしゃ)、印璽社(いんのやしろ)、三井神社、御蔭神社/
     
 糺の森の中に立つ鳥居  楼門 葵祭の準備をする 中門
   
 拝殿の奥の左右に西本宮・東本宮(共に国宝)があり、それぞれ賀茂建角身命と玉依媛命が祀られている  拝殿前の中庭には三言社が祀られている  御手洗川と井上社(斎王代の禊神事や土用丑の日の足つけ神事が行われる)  
     
 玉依媛命は賀茂建角身命の娘で賀茂別雷神の母  奥に見える「三井社(三身社)」、祭神は賀茂建角身命とその妻の伊賀古夜売命、およびその娘の玉依媛命  印璽社(印章守護の神)
     
 出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)/愛宕郡出雲郷の川のほとりの神社の意味でもともと出雲氏の総社で賀茂社より古い/比良木神社(柊社)とも云われ、ここに植えられた木々の葉先は柊のように鋸葉となり「なんでも柊」は京の七不思議  ナラの木の林を流れるので「奈良の小川」と云われる  糺の森の馬場(5月には流鏑馬神事が奉納)
     
 下鴨社の第一摂社の河合神社鳥居(下鴨社の入り口左に鎮座)、創建は神武天皇の御代とも伝わる。  河合神社の祭神は神武天皇の母神である玉依姫命(賀茂建角身命の娘と同名)であることから、女性の守護神・美麗の神として崇敬されている  河合神社は平安時代には明神大社や正一位に列せられたこともあるので格式が感じられる
     
 河合神社の本殿の左には任部社(とうべ)があり、ここの祭神はまさに「八咫烏」でサッカーの神様  河合神社の神職の家系である鴨長明が隠棲した方丈 瀬見の小川
 「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたずねてぞすむ」 鴨長明
     
葵祭り関連行事/ 5月3日の流鏑馬神事/西暦1502年以来中絶していたが昭和48年、450年ぶりに復活した日本古来の馬術  5月5日の歩射神事は葵祭りの魔除けの前儀として行われる小笠原流の弓矢を射る神事/楼門の屋根に向かって音の出る矢を射る屋越式や大的式や百百手式などがある/第11回京都検定1級出題 5月初旬の斎王代・女人御禊神事/賀茂社に奉仕する女性が身を清める神事(昔は賀茂斎院に住まいして精進潔斎した)/奇数年は下賀茂神社の御手洗池で、偶数年は上賀茂神社のならの小川で手を清め人形を流す
     
御蔭祭りとは 5月12日八瀬・御蔭神社から葵祭りの神霊を迎える神事/第2代綏靖天皇の御世に始まったといわれわが国最古の祭礼/
 東遊びは御蔭祭りに際して、神霊神馬の前で優雅に披露される舞踊  
 

 
 
八瀬地域の山奥で東山三十六峰の二番目の山の山麓に鎮座する御蔭神社   昭和初期から時代劇映画で一斉を風靡した尾上松ノ助の胸像が下賀茂神社南端の境内にある




  平安神宮              地図
  明治28年平安遷都1100年の記念祭のとき、京都の始祖・桓武天皇をお祭りする神宮として創建され、京都総鎮守の杜とされた/大極殿や応天門などの社殿は平安京の朝堂院(大内裏の中心的建物)を模し約8分の5の大きさに縮小されて造られた(現在の御所も平安京の大内裏の8分の5の規模であるから)/また昭和15年(紀元2600年)には、京都最後の天皇である孝明天皇が合祀されて社殿や回廊が増築され現在の姿が整えられた/神苑は東、中、西、南の四苑からなり、七代目小川治兵衛の作である。国の名勝。
 平安神宮    
 平安神宮の大鳥居   応天門 内裏
     
大極殿 蒼龍楼  有名な枝垂れ桜(谷崎潤一郎の細雪) 
     
南神苑  西神苑  中神苑
     
 中神苑  東神苑  東神苑





  紫雲山・くろたに金戒光明寺                                        左京区黒谷町    地図
  通称「くろたにさん」/本尊は阿弥陀如来/浄土宗京都4本山の一つ/比叡山を出た法然が叡山の先輩・叡空に譲られてこの地を念仏道場としたのに由来する/幕末期会津藩主松平容保公率いる会津藩の本陣があった/会津藩殉難者墓地あり/熊谷直実鎧掛けの松/阿弥陀堂には山越え阿弥陀来迎図もあり/三重塔は徳川秀忠を弔うため建立されたもので、日本三文殊のひとつ運慶作の中山文殊菩薩半跏像があったが現在は御影堂に安置(その昔ここの西北の地で廃寺となった中山宝幢寺にあったもの)/塔頭の西翁院には宗旦の四天王のひとり藤村庸軒好みの茶室澱看席がある
     
   
 金戒光明寺総門(多くの会津藩の武士が出入りした)   本堂へと続く長い階段  御影堂(松平容保公と近藤勇対面の間がある)
     
 境内東北の山上に会津藩殉難者の墓地がある           黒谷の紫雲の庭  徳川秀忠公の菩提を弔うため建立された三重塔。かって三文殊随一の中山文殊が祭られていた
     
 有名な茶室の澱看(淀見)席がある西翁院(非公開)/
道安囲いの茶室で宗旦四天王の一人藤村庸軒好み
 熊谷直実 「鎧掛けの松」  2013年冬の京の旅による特別公開





    鈴殸山 真如堂(眞正極楽寺)                                            左京区浄土寺真如町  地図
  天台宗、本尊は阿弥陀如来(頷きの阿弥陀)/創建は984年延暦寺天台宗の僧「戒算」による/延暦寺・常行堂の阿弥陀如来を一条天皇の母・東三条院「詮子」の離宮に安置したのが始まり/慈覚大師が仏を作ったとき「修行者を守護してくだされ」と願うと仏は首を横に振り、「女性を守護してくだされ」と云うと仏は頷いたことから、本尊は頷きの阿弥陀と云われる/その後、念仏道場として女性や庶民の信仰を集めたが、戦乱火災などで市中を転々とし、元禄年間当地に伽藍を再建した/1717年再建された本堂は京都の天台宗では最大/毎年3月に極彩色大涅槃図の公開され「花供曽(はなくそ)あられ」が授与される/塔頭の東陽院の住職であった東陽坊は利休の門人で建仁寺の茶室「東陽坊」はその名に因んだもの
 極楽寺真如堂参道  真如堂西門  真如堂境内
 真如堂参道  真如堂西門  真如堂境内
 真如堂三重塔  真如堂 本堂  
 紅葉のきれいな三重塔  11月年一度の法会が行われたばかりの本堂で、本尊が公開される。  本尊の阿弥陀如来(うなずき阿弥陀)・・・慈覚大師円仁の作で完成の時、女人を救う阿弥陀になってください、と祈願すると頷いたと言われる。
     
「春日の局」がお手植えした「 たてかわ桜」の由緒  なるほど・・・ 桜の幹の革が縦向きである  二代目たてかわ桜。水上勉著「桜守」に詳しい。
     
斉藤利三、海北友松と東陽坊長盛の墓 /光秀の重臣である斉藤利光(春日の局の父)が処刑された夜、暗闇に紛れて友人の海北友松と東陽坊がその首を運び出しここに埋葬したという/自らも墓地をここに定め、永遠の友情を誓っている
涅槃の庭(釈迦入滅の様子を庭に表す)
 3月の大涅槃図の公開(花供曾あられも賞味しました)




  聖護院                        左京区聖護院中町   地図
本山修験宗総本山/本尊は不動明王/園城寺長史・増誉のが1090年創建/贈誉は白河天皇の熊野御幸に随従して熊野三山別当職(検校)を賜り、その後代々、管長が検校職を務めた/このとき聖体護持を意味する「聖護院」の寺名を改めた/天台宗三井寺の流れをくむが第4世に静恵親王(後白河法皇の皇子)を迎えて門跡寺院となり明治まで25人の法親王が入寺した/1788年の天明の大火では、3年間光格天皇の仮御所となった                                                 
 聖護院  聖護院参道  聖護院



  大悲山峰定寺                                                      左京区花背原地町
 鞍馬山の遥か北方で京都市域の最北端に位置する大悲山の中腹にある本山修験宗の寺院/当寺は平安末期に鳥羽法皇の勅願により熊野大峰山の修験者・観空上人によって創建/建築に当たっては平清盛と信西が当たったとの文書が残る/本尊は鳥羽法皇の念持仏の千手観音菩薩/本堂は鎌倉時代末期に再建されたもので五間木造四柱杮葺き屋根で、わが国最古の舞台懸崖造りである/本堂北東隅の供水所は創建当時のものでわが国最古の阿伽井屋の遺構/近世一時荒廃したが江戸期に後西上皇の勅により聖護院の管主が伽藍を再興したため、現在では聖護院の末寺となっている
     
 峰定寺参道の脇には有名な料亭旅館「美山荘」がある 桂川の水源に近い地域で、仙渓の風情を感じる峰定寺の門前あたり  人里離れて山深いこの仙渓の地は当時北方浄土だった
     
 600円の入山料で仁王門をくぐって山麓の本堂へ  六根清浄杖を握り20分ほど自然石の階段を登りに登って、やっと懸崖の本堂が見えた  山中には修験者の行場にふさわしい断崖巨石の場所が点在する/北の大峰山と云われる




  貴船神社                                  左京区鞍馬貴船町   地図
祭神は高龗神(たかおおかみ)/神武天皇の皇母である玉依姫の乗った黄船が淀川からさかのぼってその水の源の当地に祠を建てたのが由来/式内社で二十二社の一社/祈雨の神として信仰され、晴れを祈る時は白馬が、祈雨を祈る時は黒馬が奉納されたが、いつか生き馬でなく板馬が奉納されるようになりそれが絵馬の起源となった/丑の年の丑の月丑の日の丑の刻に祭神が貴船に降臨したとの言い伝えから丑の刻参りが始まった。本来丑の刻参りは呪詛ではなく心願成就の好機であった/謡曲「鉄輪」や「橋姫」で見られるように当社は嫉妬と悪縁切りの神としても信仰されている/参拝した和泉式部の和歌でも有名
     
 奉納された馬  ご神木(桂):貴船は気生嶺とも云う。気の生ずる嶺でありそれが桂の大木のように大きく広がるを表わす  「ものおもえば沢の蛍もわが身よりあくがれ出る魂かとぞみる」 by 和泉式部




  鞍馬寺                       左京区鞍馬本町  地図
昭和22年までは天台宗に属していたがその後、信楽香雲が鞍馬弘教総本山を起こした/本尊は三尊天 : 護法魔王尊毘沙門天千手観音菩薩/当寺の由来は、七七〇年霊夢に告げられた鑑禎(鑑真の弟子)が宝の鞍を乗せた白馬に導かれ当地に至って、そこに毘沙門天を祀ったのに由来する/その後796年造東寺長官を務めた藤原伊勢人が伽藍を整備して都の北方鎮護の道場とした/山奥にある鞍馬寺は山岳信仰も盛んで、特に山の精霊と言われる天狗は僧正坊と呼ばれ最高位のものと崇められる/信楽香雲は与謝野門下の歌人であったことから与謝野鉄幹、晶子の遺品が多い/伽藍は度重なる火災でほとんどが最近再建されたものであるので文化財とはならないが、寺宝の文化財は多い/木造毘沙門天像は国宝、慶派の定慶作の千手観音菩薩像は重文である/源義経七歳のときから10年間にわたって当寺で修業したことは良く知られている/5月に行われる五月満月祭り(ウエサクサイ)は秘祭である
     
 鞍馬寺三門  鞍馬の九十九折りは、かって清少納言に「近くて遠いもの」と云われたが今はケーブルで三分である  鞍馬本堂
     
 国宝・木造毘沙門天像  重文・観音菩薩像  与謝野晶子邸を鎌倉から移築した冬柏亭
     
 源義経の供養塔  鞍馬の火祭:10月22日京都三大奇祭の一つ  この祭りは、940年御所内の祭神をこの地に勧進する時迎えた模様を表わす
     
 木の根道 10月25日の夜行われる 鞍馬の火祭り 「サイレヤ、サイリョー」  6月20日の竹伐り会式



  聖衆来迎山永観堂禅林寺                      地図   
  863年空海の高弟・真紹僧都が清和天皇から寺院建立の許可をもらい禅林寺と云う名前を賜り創建したのが始まり/1082年ごろ、時の住職・永観律師は恵まれない人のために施薬院を立てるなど尽くしたため人々に慕われ永観堂と呼ばれるようになった/鎌倉時代に住職の真言宗の僧が、法然の念仏の教えに深く帰依して法然の愛弟子・証空上人を住職として招へいし改宗/のちに禅林寺は法然上人を宗祖に証空上人を派祖にいただく浄土宗西山禅林寺派総本山となった
     
 永観堂総門  国宝・山越え阿弥陀図:山の彼方から阿弥陀如来が来迎して死者を浄土に導いてくれる様子  見返り阿弥陀:修行する永観に振り向いて「永観遅し!」と諭しながら導く様子を描いている
     
永観堂の七不思議 :1、抜け雀→古方丈の欄干に書かれた雀の絵が一羽iいないので、いつした抜けたと伝えられている 2、悲田梅→かつて悲田院のため梅林ほどあった梅が今では一株しかない 3、臥竜廊→開山堂へ続く廊下は臥竜のように極端に彎曲している 4、三鈷の松→臥竜廊の手前にある松葉は3本に別れてしかも長い。財布に入れるとお金がたまると言われる 5、木魚蛙→境内に住む蛙の鳴き声は木魚の音に似ている 6、火除けの阿弥陀如来→数々の戦乱や火災でもこの如来は焼け残った 7、岩垣紅葉→「奥山のいわがき紅葉散りぬべし照る日の光見るときなくして」by もともとこの地に住んだ藤原関雄
     
 七不思議の2、庭の悲田梅  七不思議の6、火除けの阿弥陀如来  七不思議の7、岩垣の紅葉



    瑞龍山南禅寺(太平興国南禅禅寺)               左京区南禅寺福地町  地図
  臨済宗南禅寺派総本山、本尊は釈迦牟尼仏/亀山天皇は1264年生母の御所としてここに離宮を造営したが、夜ごと妖怪に悩まされた/そこで東福寺の第三世の無関普門(大明国師)を呼んで祈らせたところ、これを座禅で退散させた/これに感じ入った亀山天皇は1291年帰依してこの離宮を寺に改め、無関譜門を開山として南禅寺を創建した/皇室が開基した禅寺はここが初めて/また平安初期から近くにあった永観堂禅林寺の南方に位置したので南禅寺と呼んだ/禅僧となった法皇は「禅林禅寺祈願文」で「この寺の住職は日本で一番優れた禅僧を選ぶべし」との御錠を残したことから、夢窓疎石・虎関師錬・春屋妙葩などの名僧を多数輩出した/後醍醐天皇はこの事情から南禅寺を禅宗五山の一位に置いた/しかしその後足利義満は自分が創立した相国寺を一位にするため、南禅寺を別格とした/応仁の乱で伽藍焼失して荒廃していたが、江戸期に入って家康の側近であり黒衣の怪僧と言われた以心崇伝(金地院を再興した)が入寺して以降、徳川家の権力財力をバックに寺威は長く維持された(南禅寺の武家面)
     
 藤堂高虎の寄進  方丈入り口  国宝の方丈
     
 小堀遠州作「虎の子渡しの庭」  狩野探幽の襖絵  南禅寺疏水の水路閣




  金地院                  左京区南禅寺福地町    地図
  南禅寺の塔頭で本尊は地蔵菩薩/もともと1400年頃大業和尚が足利義持の帰依を受け洛北鷹が峰に禅寺を開創した/1600年頃以心崇伝長老がここに移築した/崇伝長老は天海僧正とともに徳川家康に近侍し、威勢すこぶる盛大であった/黒衣の宰相と呼ばれ、世に寺大名と言われたのは金地院崇伝のこと/東照宮は崇伝長老が家康の遺嘱により造営したもの
     
 金地院山門  金地院庫裏  小堀遠州作の鶴亀の庭園→古来名声高き庭園(特別名勝)
     
 猿猴捉月図等は長谷川等伯筆で重文、
八窓の茶室も重文。
 金地院庭園全景  東照宮



  南禅院                左京区南禅寺福地町  地図
  南禅寺の別院/亀山上皇の離宮の一部の遺跡でありその持仏堂が南禅院となった/史上たびたび火災にあい荒廃したが、江戸中期桂昌院が再興した/庭園は夢窓疎石作と伝えられ、離宮当時の面影を残し鎌倉時代の代表的池泉回遊式庭園/周囲は深い樹林で囲まれている
     




  天授庵     左京区南禅寺天地町
  天授庵は南禅寺第十五世虎関師錬が、南禅寺開山第一世大明国師・無関譜門を奉祀するため南禅寺の開山塔として開創した/その後火災や戦乱で荒廃していたが江戸初期に細川幽斎の寄進により再興された
     




  魚山三千院                           左京区大原来迎院町  地図
天台宗三大門跡の一つ(他は青蓮院と妙法院)で梶井門跡と言われる/800年ごろ最澄が比叡山東塔に建てた草庵(円融坊)が起源で自刻の薬師如来像が本尊として当寺に伝わっている/天台宗大法阿闍梨・承雲が860年東坂本・梶井の地に里坊を結び、この草庵を継いで円融院と称した/堀川天皇の皇子が円融院の門主となって入山以降代々の皇族や摂関家からの入山が続いた/堀川天皇の皇子は最雲法親王と名乗り天台座主に任命されるや、当時大原で流行り始めた声明念仏行者を監視・統括するため現在の三千院の場所に天台宗の政所を設置した(これが現在の三千院につながる)/一方、1230年の火災を機に梶井門跡は坂本を出て洛中の船岡山や東山を転々としたが、江戸期に将軍綱吉から鴨川の西側で御所広小路に土地を与えられ、門跡寺院をつないだ(現在の府立医科大学は梶井町にある)/明治維新のとき円融院門跡だった昌仁法親王(伏見の宮親王の子)は還俗して梨本宮家(梨本とは最澄の草庵が梨の木の元だったことによる)を起こし、円融院はすべて大原の政所に移された/このとき三千院と改称して円融院の法灯を継いだ(三千院とは「一念で三千の法相」を表わすとの仏語による)/三千院の山門や石垣が厳めしいのは、かつてここが寺院ではなく政所であったことを物語っている。

境内にある往生極楽院はもともと別の寺院であり恵心僧都源信が母を弔うため開創したと伝える/ここに安置される阿弥陀三尊像は国宝で両脇待の観世音菩薩と勢致菩薩の正座坐り(大和坐り)で有名/この阿弥陀三尊像が鎮座する本堂は内陣の天井が船底型になっており、空間に二十五菩薩来迎図が描かれている

     
 門跡寺院・山門のの風格  客殿南の聚碧園は池泉鑑賞式庭園  往生極楽院前の有清園(瑠璃光殿)の庭は緑の苔に覆われ、わらべ地蔵があちこちに顔を見せる
     
12世紀に創建された往生極楽院(重文)  阿弥陀堂の脇仏の両観音が今にも救済のため立ち上がろうとしている姿を表す(大和坐りの阿弥陀三尊像)
天井は船底天井で空間に二十五菩薩来迎図がある。
 後鳥羽上皇と順徳上皇の大原稜(三千院の北隣)


  魚山来迎院(三千院塔頭)                京都市左京区大原来迎院町   地図
平安時代初期、入唐時して五台山念仏(声明)を学んだ慈覚大師円仁は、唐の五台山麓の太原(大原の語源はこの太原による)に地形的に類似したこの地に来迎院を創建して声明念仏を伝えた/平安時代末期、叡山が政治的に俗化されると、志の高い僧侶は競って修行の地を求めて大原に隠棲した/ なかでも聖応大師良忍は、大原で来迎院を再興してここを道場とし、自分の手足の指を燃やして仏に供えるなどの厳しい修行を積んだ/その教えは一心に声明を唱えると一人念仏と衆人念仏とが機縁を持って往生を遂げられるというもの(融通念仏)/この教えは都や畿内に流布されて、やがて河内(大阪市平野区)に大念仏寺を総本山とする融通念仏宗が開かれた

この地域の寺を魚山と称するのは、中国仏教の聖地である五台山の乾(西北)の方向に魚山と云う山があり、この山が仏教声明のふるさとであった。そのため帰朝した円仁が比叡山を五台山、乾方向のこの地にある寺を魚山といった。

この地で声明が盛んになると、勝林寺、極楽往生院、宝泉院、実光院など合わせて大原寺とよばれた。。
     
 三千院からさらに深山にひっそりとたたずむ山門  来迎院本堂  阿弥陀三尊像(重文)



   魚山勝林院(三千院塔頭)               左京区大原勝林院町    地図
  当寺は古くから(平安初期)来迎院と共に円仁による創建され、天台声明の道場であった/平安中期には叡山と三井寺の衝突を避ける形で大原に隠棲した叡山の高僧・寂源(宇多源氏の祖・源雅信の八男)によって再興された/時あたかも末法思想のとき、新興の法然の説く新念仏に同調できない既成宗教の念仏志向への流れが天台声明ひいては融通念仏と言う形で庶民救済の信仰となって時代に受け入れられた/平安末期、南都北嶺の既成宗教は、新興の念仏宗の法然を当寺に招き、大原談義と言われる宗論を展開した/この大原談義の成功により法然は一層名声をあげた
     
 三千院の門前をまっすぐ進むと勝林院の山門  勝林院の本堂(大原談義が行われた)  本尊の阿弥陀如来/大原談義を正面から見つめていたため「証拠の阿弥陀}と云われる



 魚山宝泉院 (三千院塔頭)                  左京区大原勝林院町    地図
  当寺は勝林院の西隣に位置し、勝林院の僧坊として平安時代末期に創建された/1999年JR東海の「そうだ京都行こう」で人気のあった額縁庭園で有名になった
     
 宝泉院山門  宝泉院の入り口はぶら下がった板を木槌でたたく  夏椿(沙羅双樹の落下が苔庭を彩る)
               
 有名な宝泉院の額縁庭園  樹齢700年のゴヨウマツ(京都市指定天然記念物)  水琴窟            四つ目の血天井



  清香山寂光院                      左京区大原草生町  地図
  本尊は地蔵菩薩/594年聖徳太子が父用明天皇の菩提のため建立/建礼門院の隠棲の寺として有名/平成12年火災で本堂焼失したが同17年再建
     
     




 法国院古知谷阿弥陀寺           左京区大原古知平町
  当寺は1609年、尾張の国出身の弾誓上人が諸国修行行脚の末、最後に当地に来着して念仏道場を開いたのが起源/弾誓上人は諸国遊行修行中、佐渡六年間の山岳洞窟修行で開眼してさらに諸国衆生済度のため全国に多くの寺院を開創した/入山後4年、62歳の弾誓上人は木食して体質を樹脂化した後、自ら石棺に入り即身成仏したと伝えられる/木食とは肉類を避けるだけでなく人の栽培した五穀類さえ絶って、木の実、草、茸、海藻などを煮炊きせず塩を加えず食することで、生身の究極の清浄を得て即身成仏を成し遂げられるとされた/またそのことで、人間の能力を越えて神仏の能力を得て、千里眼、未来予測、病気治し、雨降らし、災厄封じなどのひとが最も望んだ現世利益が意のままとなると信じられた→釈迦も空海もそうであったように、ある意味これが仏教の本質かもしれない
     
大原を越え、鯖街道を途中越えにさしかかると発見  白い漆喰で塗り込められた独特の総門  京都市指定天然記念物「古知谷のかえで」
     
 苔むした山中の参道はいやがうえにも古色蒼然の雰囲気  意外と明るい境内  訪れる人とてない本堂の座敷をしばらく独り占め
   


 
 
 弾誓上人のミイラ仏が安置された石廟  「弾誓上人絵詞伝」の弾誓上人



   円城山霊鑑寺                                                    地図       
 臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院、谷御所・鹿ケ谷比丘尼御所とも云う/後水尾天皇の皇女・多利宮が1654年創建/その後明治まで皇女が住持を承継した
     
 霊鑑寺総門  下段の枯れ池の庭、般若寺型灯籠が見える  後水尾上皇の遺愛の日光椿
     
 尼僧の住持のお話  奥書院  御所人形




   住蓮山安楽寺                                                                   地図       
  浄土宗単立寺院、本尊は阿弥陀如来/法然の弟子の安楽と住蓮が開いた念仏道場/その後二人のもとで後鳥羽院の女御であった松虫・鈴虫の二人が密かに入信し出家したため院の怒りに触れ両僧は死罪、法然は流罪となった(建永の法難)/道場はその後荒廃したが1681年両僧供養のため当地に伽藍が建立された/毎年7月25日に庶民の中風封じのため、鹿ケ谷カボチャ供養が行われる
     
 安楽寺参道  安楽寺境内  安楽・住蓮上人の墓/安楽上人の辞世の句;「今はただ云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏の御名のほかには」
     
 松虫姫、鈴虫姫墓の案内木片  両姫の墓  書院と庭園



   善気山萬無教寺法然院                                                地図                
  浄土宗単立寺院、本尊は阿弥陀如来/鎌倉時代の初め、鹿ケ谷の草庵で法然が弟子の住蓮・安楽と共に六時礼讃を勤めたのに由来する/その後荒廃したが1680年知恩院の高僧が再興して今日に至る/境内には谷崎潤一郎、九鬼周造、川上肇など多くの文化人の墓がある
     
 法然院への表参道  裏参道  草庵らしい表門
     
 境内の「白砂壇」が美しい  本堂  方丈前の庭園
     
 絶えることなき清泉「善気水」が板蓋の下にある  散り椿の庭  当寺の住職の法話を聞いた。ありがたい。



  大豊神社(おおとよじんじゃ)         左京区鹿ケ谷宮前町
  祭神は少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀っている/平安時代は宇多天皇の病気平癒のため勅命を奉じた勅願社であった/時代を通じて兵火のため興亡を重ねたが、近世以降地域の産土神として信仰を集めている
     
 哲学の道から境内の道を入る  本殿前の境内も枝垂れ桜が満開  摂社の愛宕社と日吉社
        
 摂社の大国社  愛宕社の神使いが狛鷹、   日吉社の狛猿                   大国社の狛鼠



  東山慈照寺銀閣寺                                         地図                       
  相国寺の山外塔頭、本尊は釈迦如来/世界遺産登録/1482年8代将軍足利義政が46歳のとき浄土寺跡(浄土寺はかって平安期には皇族が入寺するほどだったが相国寺付近に移設されその後消滅)に建てた東山山荘に始まる/通称銀閣と呼ばれる楼閣はこの山荘内の観音殿である/義政は西方寺の瑠璃殿や鹿苑寺の舎利殿(金閣)に倣って1485年に上棟したが、翌年54歳で死去/没後足利家の菩提寺であった相国寺に継いだため相国寺山外塔頭の禅寺となり、義政の法号に因み慈照寺となった/その後戦乱で荒廃したが寛永年間に相国寺が修復して現在に至る/銀閣と云う名前は江戸期以降使われていて、北山の金閣の弟分だから後世の人がそのように俗称としたものと言われる/しかし、月夜には錦鏡池や銀砂灘に反射した月光が青白く観音殿を照らし、「これぞ銀閣寺」となるそうです
     
 建仁寺垣の変形である銀閣寺垣 庭園として池水と対をなす 向月台銀砂灘(ぎんしゃだん)  国宝の観音殿(銀閣)→一層は心空殿と呼び腰高障子を廻らした和風書院、二層は潮音殿と呼び花頭窓と高欄を廻らした禅風仏堂
     
 国宝の東求堂同仁斎と云う四畳半部屋は武家書院や茶室として現存最古のもの  国指定特別史跡&名勝庭園
義政自身が作庭指導したと言われる錦鏡池の池泉回遊式庭園
 遥か彼方に金閣寺や西方寺方面が望める




  熊野若王子神社                                      地図          
  熊野若王子という/若王子は天照大神の別称/祭神は天照大神ら四柱/平安初期真紹僧都が禅林寺創建に当たり鎮守社として祀ったのが起こり/平安末期に後白河上皇が紀州熊野権現を勧進したとも云われる/足利将軍に厚く信仰されたが応仁の乱で焼失し秀吉により再興されて現在に至る/熊野神社、新熊野神社とともに京都三熊野社と言われている
     
 若王子神社への石橋と階段  神社本殿  神社前から西方を望む



  哲学の道       左京区
哲学の道は 熊野若王子神社から銀閣寺前白川通りまで約600mを琵琶湖疏水の分水堀に沿って開かれた散歩小径である/明治のころ文人が多く住んでいたので「文人の道」と呼ばれていたが、その後西田幾多郎や田辺元などの哲学者が思索に耽りながら歩いたので「哲学の道」と云われるようになった/白砂村荘に住まいする橋本関雪が寄贈した桜並木が季節になるとすばらしい景色を見せてくれる 
     



  吉田神社                            左京区吉田神楽岡町   地図
  859年(貞観元年)に藤原山蔭が奈良の春日神を吉田山西麓に勧進し氏神として祀ったことに由来する/以来藤原氏の京都の氏神とされ、朝廷の崇敬も受けた/応仁の乱で荒廃したが神官の吉田兼倶が唯一神道を唱え、天神地祇八百万の神を奉斎する「大元宮」を創設し、当社ならびに神社界の復興に貢献した/2月3日の節分祭りの追儀式は」鬼やらい」として有名/
     
 吉田神社参道入り口              吉田神社境内  吉田神社本殿
     
八百万の神が集まる「大元宮」  四条流包丁道の祖、藤原山蔭を祀る/現在は生間家(有職料理・萬亀楼の主人)の生間流式包丁としてその流儀を伝えている  紅もゆる・・・歌碑の吉田山



  無鄰菴                                   地図                      
  無鄰菴は明治の元老山形有朋の京都の別邸である/ここでは日露戦争開戦前夜、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の四者会談が行われたところ/庭は明治の作庭家七代目小川治兵衛の代表的作品で琵琶湖疏水から水の灌漑を受けており、日本の里山風景を模している
     
 無隣庵入り口  小川治兵衛作の庭園  明治の元勲四者会議の現場




  帰命山蓮華寺                         左京区上高野八幡町             地図
  天台宗、本尊は釈迦如来/かっては時宗の寺であったが戦乱で荒廃後1662年加賀藩の家老今枝民部近義が祖父の供養のため現在地に再建/開山に天台宗の僧を招いたため天台宗に帰属する/近義は文人で交友関係が広く、朱子学者木下順庵や黄檗宗の創始者・隠元の指導を受けたり、また石川丈山や狩野探幽などの協力を得て蓮華寺の作庭をしたと伝えられる/そのため蓮華寺は黄檗宗の様式建築と江戸初期の池泉鑑賞式庭園の典型とされる/本堂参道左右に蓮華寺型灯籠がある。独特の形は文人・茶人に好まれた。
 蓮華寺寺門    
 寺門  庭園  蓮華寺型灯籠



  崇道神社                左京区上高野八幡町         地図
  早良親王の怨霊を鎮めるため貞観年間にこの地に創建された/大正時代近隣の小野神社など三社が合祀された/江戸時代当社の裏山の石棺の中から墓誌が発見された/それは遣隋使小野妹子の子・小野毛人の墓誌であった→国宝
     
 参道  小野毛人墓誌発見の跡  祭神は早良親王の本殿



  曼殊院 (竹ノ内門跡)               左京区一条寺竹ノ内町      地図      
  天台宗、本尊は阿弥陀如来/もとは最澄の草創に始まる/その後1656年、桂離宮を完成させた桂の宮智忠親王の弟である良尚法親王が修学院離宮の近くのこの地に移転造営された/庭園、建築とも江戸時代の代表的書院建築でその様式は桂離宮と関連深い/多数の窓による光の演出が見事な八窓軒の茶席、梟の手水鉢、鶴島の松と曼珠院型石燈籠が有名/また不動明王像は黄不動として知られる
     
 樹齢400年の鶴島の松と曼珠院灯籠  境内の紅葉  今日は参拝見学者が多い
     
 梟型手水鉢  黄不動と呼ばれる不動明王像  拝観できない八窓軒の茶室イメージ


  仏日山金福寺                左京区一乗寺才形町            地図
  天台宗→臨済宗、本尊は聖観菩薩/平安初期に慈覚大師(円仁)の遺志によって創建/一時荒廃していたが江戸期、金福寺の禅僧・鉄舟和尚により再興/鉄舟和尚は松尾芭蕉が入洛時親交を結んでいたという/その後年、当寺を訪れた与謝野蕪村は芭蕉が愛した庵を再興し「洛東芭蕉庵再興記」をしたため当寺に納めたのが縁で当寺の境内裏山に与謝野蕪村の墓がある/また幕末井伊直弼の隠密と言われた「村山たか女」が賀茂の河原で生き晒しになって後、尼僧になって当時に入り14年間の余生を送った/当寺には彼女の位牌や参り墓はあるが本墓はなぜか隣の圓光寺にある
     
 人並みの参道  庭園  生き晒しのたか女の絵
     
 たか女の位牌  与謝蕪村の墓  芭蕉庵
 

 

 



  瑞厳山圓光寺                   左京区一乗寺         地図
  当山は1601年徳川家康が伏見の指月に開いた学問所を起源とする/家康は多くの武士や僧侶に儒学を習わせるため、木製活字を考案し貞観政要や武経七書など多くの書物を出版させた/これらは伏見版とか圓光寺版とか云われ多くのものが現存する/本堂は尼僧の禅宗専門道場
     
 圓光寺山門  圓光寺伝来木活字  松下の寿老人 by 渡辺始興
     
 風竹図屏風 by 円山応挙   なぜか金福寺にゆかりのある「村山たか女」のお墓がここにある  紅葉の葉敷き庭




 八大神社                左京区一乗寺         地図
  この神社は宮本武蔵が一乗寺での吉岡一門との決闘の前に神前に立ち止まり、「吾、神は敬うがこれを恃まず」と一礼して走り去ったと云われる神社
     
     
     



 六六山詩仙堂丈山寺         左京区一乗寺門口町    地図
  もとは徳川家康の側近であった石川丈山が1641年隠居所として建てた草庵が起こり/丈山は中国の三十六詩人の絵を狩野探幽らに書かせてそれを詩仙の間に掲げた/これが詩仙堂の名前のいわれである/庭園は丈山好みの唐様庭園で堂の東南には滝(洗蒙瀑)を構える/またその下の庭にある添水・山田の僧都は丈山の考案になるもので、鹿おどしとも云われて全国の和式庭園に波及した/昭和41年曹洞宗の寺院となった
     
 詩仙堂入り口  唐様庭園  枯山水庭園
     
 中国三十六詩人の肖像画         絶えず岩を穿つ洗蒙瀑  沈黙をときどき破る鹿おどし



  松﨑山妙円寺(松ケ﨑大黒天)            左京区松が﨑東町   地図
江戸時代初期1616年、本涌寺(今の涌泉寺)の境内に住職の日英上人が自分の隠居所として開基した法華宗の寺院/日英上人はこの時法華経の守護神として大黒天を祀ったのが松ケ﨑大黒天の始まり/大黒天は都の表鬼門のこの地で都を守護し、また多くの参拝者には寿福円満、開運招福、商売繁盛の奇瑞ありとされる/京都都七福神の一つ/この地は京都五山送り火の「妙法」の法の文字の真下にあることから大黒天が下から支えていると見られている
     


  赤山禅院         左京区修学院      地図
赤山禅院は平安時代初め888年、入唐僧「円仁」に遡る/円仁が唐の登州で滞在した赤山法華院に因んで、禅院の建立を望んでいたが果たせず亡くなった/この遺命を「安慧」が赤山大明神(泰山府君)を勧請して建立したのが赤山禅院である/よって本尊は泰山府君であり、御所から見て表鬼門の方角であることから方除けの神としてまた都七福神のひとつとして、多くの民の尊崇を集めている/商いの掛売り回収に霊験ありということで商人に信仰が多い・・・当院の例祭の5日に参拝して集金すれば良く回収できると云われる→五日払いの習慣の起源
     
赤山大明神は、天にあっては福禄寿、地にあっては陰陽道の祖の泰山府君として万物の命運を司るとされる  本殿の屋根には猿(悪縁がサル)が見張っている。 本尊の泰山府君 



 百万遍知恩寺                           地図
浄土宗四ケ本山の一つ/もともと平安時代前期比叡山の僧・円仁の創建と伝えられている/法然上人が一時この寺に住んだことから開山一世とされた/元弘元年(1330年)京都に疫病が蔓延したため、当寺の八世善阿僧正が7日間念仏百万遍会を行いこれを鎮めた、と言われる/そのため後醍醐天皇より百万遍の号を賜りこれを寺号とした/  
     



  白沙村荘橋本関雪記念館                 地図
  大正・昭和期に文人画家で有名な日本画家橋本関雪(1883年~1945年)が、大正5年銀閣寺畔に広大な邸宅を営んだ場所が白沙村荘と呼ばれている/この場所は橋本関雪の画家としての制作場所であると同時に、晩年を妻と共に過ごした生活の場であり、作庭や邸宅ともども画家としての美意識が反映されている。
     
     



 修学院離宮                     京都市左京区修学院
宮内庁にネット申し込みを許可されて2013年6月11日午前11時から約15名程度で、やっと念願の見学会に参加することができた/あいにく台風のため斑雨の天気であったが、いかにも宮内庁職員らしいひどく抑揚のある名調子の案内で予期以上に楽しむことができた
修学院離宮は比叡山の西麓に後水尾上皇が造営した広大な山荘である/地名としての修学院は平安時代中期修学院と云う寺があったため /山荘は桂離宮造営から遅れること30年余り、上皇が天皇退位から25年以上を過ぎて60歳にほど近くなってやっと適地として認められ造営が始められた/造営はほぼ4年で完成したが、その間上皇自ら草木から踏石に至るまでプランを練ったことは、近衛与楽院の記録「槐記」に記されている/また山荘に招かれた鹿苑寺の鳳林承章は「隔蓂記」のなかで「凡そ目を驚かせ肝胆に徹するもの・・・」を記している/当初、山荘は上と下の二つからなるものであった/相前後して中間部に上皇の第八皇女・朱の宮光子内親王の山荘ができ、後に上皇の中宮東福門院が亡くなるとその女院御所の一部を移築して拡張した/上皇死後は内親王は落飾得度して林丘寺とされ、代々女院御所として皇女が跡を継いだ/明治一八年林丘寺から客殿と楽只軒が宮内省に返還され離宮に編入した/また昭和三九年周辺に展開する広大な農地を買い上げて付属農地として景観保持を保っている
 下の茶屋には
寿月観がある
           
 中の茶屋では
客殿と楽只軒が
ある

         
客殿は後水尾上皇の中宮東福門院の御所から移築したもので、中央の棚は日本三棚のひとつ「霞棚」
建物としては院内で最も古い楽只軒
上の茶屋には
隣雲亭と窮篴亭
           
         
 上の茶屋への入り口    頂上の隣雲亭       眼下に市内が一望     宝形造りの窮篴亭     床も棚もなく一切の装飾を拒む
 浴龍池
島を龍になぞらえた
           
隣雲亭から見下ろす      千歳橋          詩歌管弦船遊びの船着き場  大刈込の堤       隣雲亭の一二三石(ひふみいし)



  対岳文庫(岩倉具視幽棲旧宅)                左京区岩倉上蔵町  地図
  岩倉具視は明治維新における代表的な政治家/この旧宅は、孝明天皇の妹である和の宮の将軍降下を具視が進めたことで佐幕派の巨頭と見られ、しばらく辞官落飾したときに5年ほど幽棲したところ
     
 岩倉具視旧跡入り口(国指定史跡)  対岳文庫(昭和3年武田五一の設計による建築で国登録文化財)  対岳文庫内部、ただし重要文化財ほとんどは京都市歴史資料館に収蔵されている
     
 対岳文庫の西側に旧宅がある  幽棲していた茅葺の旧宅  具視の孫にあたる東伏見の宮妃の書「鄰雲軒」の額



   実相院門跡                  京都市左京区岩倉上蔵町        地図
  実相院はもと天台宗の門跡寺院で不動明王を本尊とする/1229年近衛基通の孫である静基僧正を開基として紫野に創建された/その後応仁の乱などで岩倉に移転した/江戸時代初期に東山天皇の中宮承秋門院を迎えるなど天皇家とのゆかりが深まった/そのため四脚門や客室など大宮御所の建物を賜り女院の住まいとしての風格ある佇まいが感じられる
     
 四脚門  緑あふれる庭園  有名な「床みどり」


  大悲山 円通寺             左京区岩倉幡ケ枝町     地図
 もとは後水尾天皇が修学院離宮着手以前に造営された幡枝離宮であった/修学院離宮完成後は上皇念願の禅院開創を実現するため霊元天皇母上を開基として迎え妙心寺派の勅願所となった/庭園は比叡山を借景とした枯山水平庭で、国の名勝に指定されている
     



  妙塔山妙満寺              左京区岩倉幡ケ枝町    地図
  顕本法華宗の総本山/会津出身で天台宗の学頭であった玄妙が66歳のとき東国で日蓮宗に帰伏し日什と名乗る/上人が68歳の時上洛し、足利義満や後円融天皇に認められ洛中に教えを広める綸旨を賜った/1383年京の豪商天王寺屋通妙の保護を受け、日什が六条坊門室町に法華堂を建立したのが当寺の始まり/その後も、長い争乱や法難及び火災で焼失や再建を繰り返した(秀吉以後は寺町二条)/昭和40年に現在の地に移転/見どころは、寺町二条から移設された「雪の庭」/これは寺町二条時代、俳諧の祖松永貞徳が造営した庭で、清水寺の「月の庭」、北野廃寺の「花の庭」と共に「雪月花の庭」とされる/安珍清姫の鐘は安珍清姫伝説ゆかりの鐘で、もともと紀州道成寺にあったものであるが、秀吉の根来攻めのとき配下の武将が持ち帰り妙満寺に納めたもの
     
 妙満寺への参詣路には池が配されている  山門を入ると本堂に至る石畳が何処までも続くよう  堂々の本堂
     
 寺町二条の時の庭を石組等はそのまま移築した  伝説の「雪の庭」  安珍清姫伝説の鐘



 如意山補陀洛寺(小町寺)             左京区静市市原町   地図
  天台宗寺院で本尊は阿弥陀如来/絶世の美女小町が老いた身をこの地で終えたと伝わる/「吾死なば焼くな埋めるな野に晒せ 瘠せたる犬の腹肥やせ」が辞世の句と言われる/あまりにむごい句であるが当寺の常識からすれば風葬が庶民の常識であったらしい/このことが穴目ノススキや卒塔婆小町など小町の数々の伝説を生むことになる
     
 鞍馬街道の中ほどの峠道にその寺がある  階段を上ると粗末な本堂  本堂北方にさらに行くと小野小町の墓に行き当たる
     
 最近再建された補陀洛寺  本堂にひっそりとたたずむ小町老衰像  小町姿見の池



 秋元神社 (八瀬天満宮)        左京区八瀬秋元町   地図
  八瀬天満宮は菅原道真が亡くなった後、叡山の師である法性坊阿闍利の勧請により創建された/道真は若いころ自己研鑽のためこの地を基地に叡山に通ったと言われる/またその昔、壬申の乱で傷ついた天武天皇がこの地で釜風呂を作り矢傷を癒したと言われる/この地は勤皇の志が高く、南北朝時代足利尊氏に追われた後醍醐天皇が叡山に逃れるとき、多くの村人が駕籠かきをするなどして奉護したため永代租税を免れた/また村人から朝廷の駕籠かきとして伝統的に奉仕していたがその時の装束が童子風であったため八瀬童子と言われ、大正天皇の崩御のときまで奉仕した/江戸時代、叡山と八瀬村の利権争いが生じた時、時の幕府の老中秋元但馬守が八瀬村の租税の免除の利権を認める裁決を下した/後年、報恩のため秋元但馬守を八瀬天満宮の摂社秋元神社として祀り、赦免地踊りを奉納した(国指定無形文化財)
     
 八瀬地域の北端に位置する八瀬天満宮の朱色鳥居  鳥居から東の叡山に向けての参道は昔ながらの風情あふれる田園風景  突き当たりに緩やかな石段がある
   
 正面が天満宮  右隣に秋元神社の摂社がある  赦免地踊り



  三宅八幡宮                  左京区上高野三宅町  地図
推古天皇の時代、この地の出身の小野妹子が遣隋使として九州に赴いた時重い病に罹ったが宇佐八幡宮で祈願したところ、たちどころに治った/そこで帰国後、小野妹子は当地に宇佐八幡宮を勧請して祀ったのが由来/その後南北朝時代、南朝の忠臣児島高徳(別名三宅高徳と云う)が当社を崇敬したことから三宅八幡と言われる/また明治天皇が御幼少のころ当社の祈祷で重い病が回復した、との神徳が世に伝わって以来、子供の守り神として広く信仰されている/特に子供の「病気除け」「夜泣き」「かんの虫除け」に霊験があるといわれ、その最も盛んな明治期の様子が奉納された多くの絵馬に克明に描かれている/その絵馬は平成21年に国指定の重要有形民俗文化財に指定された。
     
 三宅八幡の鳥居の両サイドには狛犬ではなく、鳩石像が見張っている/八幡宮の神の使いの動物は鳩である  拝殿と本殿  江戸末期から明治時代に奉納された絵馬の資料館
     
 三宅八幡神社奉納子育て祈願絵馬の一つ/国の重要有形民俗文化財(京都では数少ない)    境内の茶店で売られている鳩餅



 松ケ﨑山 涌泉寺                       左京区松が﨑町    地図
 もとは平安時代に建立された松ケ﨑寺が始まり/鎌倉時代日蓮の弟子日像が京で法華宗を広めた際、当寺の実眼住職がこれに同調し法華宗に改宗した/その時全村民が法華宗の説教に感銘しお題目を唱えながら踊ったという/その踊りが「松ケ﨑お題目踊り」として有名になり現在に伝えられている
     
     
     


   開法山頂妙寺     左京区仁王門通り川端東
  当寺は日蓮宗京都二十一箇本山の一つとして日蓮宗の由緒ある寺院である/室町時代、下総中山法華経寺の日祝上人が上洛布教したとき開創されたが、天文法華の乱や信長による安土宗論の策謀さらに江戸期には天明の大火など幾度も辛酸をなめてきている/にもかかわらず顕著な霊宝や文化財が多く遺されている/住所の仁王門通りの云われは、この寺院の山門が通りに面していたことからそう呼ばれるようになった。
     


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